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北条家

北条早雲 ほうじょう そううん (1456?~1519) 北条家
 後北条家初代。本名は伊勢盛時。室町幕府8代将軍・足利義政の申次衆をつとめた伊勢盛定の子で、自身も申次衆、奉公衆をつとめた。応仁の乱で父・盛定が面識をもつようになった駿河守護・今川義忠に、姉・北川殿(妹とも)が嫁いだことがきっかけで今川家と関係をもつようになり、義忠が遠江での戦いで不慮の討死を遂げると、甥・氏親(北川殿の子で義元の父)の家督争いに介入して相続に貢献、その功で興国寺城を与えられた。1493年、幕府の命により伊豆堀越に居を構えていた堀越公方・足利茶々丸を攻めて伊豆平定に乗り出し、四公六民の税制を施行することで国人の支持を得て短期間でこれを完遂した。歴史的にはこの伊豆討入りもって関東戦国時代の幕開けとすることもある。その後、居城を韮山城に移して関東へ進出、1495年には小田原城を手に入れ、1516年に相模守護代・三浦家を滅ぼして相模を平定した。1518年、家督を子・氏綱に譲り、翌19年に韮山城で病没した。


北条氏綱 ほうじょう うじつな (1487~1541) 北条家
 後北条家2代。早雲の嫡男。「勝って兜の緒をしめよ」という遺言を残したことで有名。父・早雲の隠居により家督を継ぐ。父の死後、本拠地を韮山城から小田原城に移し、さらに関東支配を正当化するため、かつて鎌倉幕府の執権だった北条の姓を名乗り始めた(正室が執権北条家の末裔で朝廷から正式に認められたという説もある)。東は関東の覇権をかけ、扇谷上杉家、小弓公方、安房里見家と戦い、武蔵半国、下総の一部にまで領土を広げ、西の今川家とは早雲以来、今川家を主として主従のような関係が続いていたが、今川義元に代替わりし、義元が北条家と敵対していた甲斐武田家と同盟を結んだことをきっかけに関係を解消して独立、駿河に攻め込んで駿河の東半国を手に入れた。領土の拡大には成功した氏綱だったが、どの敵対勢力も滅亡までは追い込めず、今川、扇谷上杉家が反撃の兆しを見せる中、嫡男・氏康に後事を託して病没した。

<北条氏綱 五ヶ条の訓戒>
一.大将から侍まで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。
一.侍から農民にいたるまで、すべてに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない。
一.驕らずへつらわず、その身の分限を守るをよしとすべし。
一.倹約に勤めて重視すべし。
一.いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし。勝って兜の緒を締めよ。



北条氏康 ほうじょう うじやす (1515~1571) 北条家

 後北条家3代当主。氏綱の嫡男。伝馬制や租税制など優れた政治手腕で北条家の最盛期を作り出し、戦いでも上杉謙信武田信玄と渡り合い「相模の獅子」と呼ばれた。父・氏綱の病死により家督を継ぐ。氏綱は駿河東部、武蔵、下総の一部にまで勢力を広げたが、敵勢力を滅ぼすまでには至らず、氏綱死後、今川義元、扇谷・山内両上杉家によって東西から攻められるという危機を迎えた。氏康は信玄に仲介を頼み、父・氏綱が手に入れた駿河東部を今川家に返上するという条件で義元と和睦。圧倒的な兵力を誇る扇谷・山内両上杉家には弱気な態度で油断させたところを急襲して圧勝、扇谷上杉家を滅ぼし、山内上杉家も滅亡同然まで追込んで関東の覇権を手中にした(河越夜戦)。その後も、揺れ動く外交関係の中、甲相駿の三国同盟後には10万ともいわれる軍勢を率いてきた上杉謙信、三国同盟の崩壊後に結んだ越相同盟の後には武田信玄とも戦い、両者に小田原城まで攻め込まれながらも撃退して、関東での覇権を守り切った。


北条氏政 ほうじょう うじまさ (1538~1590) 北条家
 後北条家4代当主。氏康の嫡男。1559年に父・氏康から家督を譲られるが、氏政が実権を掌握したのは氏康の死後だった。氏康死後、利害の一致を見なかった越相同盟を解消し、武田勝頼と結ぶ。上杉謙信が亡くなると謙信の養子となっていた弟・景虎を支援して御館の乱に介入するが、勝頼が敵対していた景勝と結んだため敗北した。そのため勝頼とは同盟を解消、織田信長徳川家康に接近して共に勝頼を攻め滅ぼした。信長の勢力が関東に及ぶと友好的な関係を築こうとするが、本能寺の変で信長が横死すると態度を一転、織田家重臣・滝川一益を神流川の戦いで破り織田勢力を関東から駆逐した。しかし、その後、天下をほぼ統一した豊臣秀吉との外交政策に失敗。22万ともいわれる大軍で小田原城を攻められ降伏開城するが、責を負わされ切腹した。


北条氏直 ほうじょう うじなお (1562~1591) 北条家
 後北条家5代当主。氏政の嫡男。正室は徳川家康の娘・督姫。1580年、父・氏政の隠居により家督を継ぐが、実権は氏政に握られていた。小田原征伐では豊臣秀吉の意向に従うつもりであったが、強硬派である氏政や叔父・氏照らに押され不本意な開戦となってしまう。結果、22万という大軍に攻められ降伏する。戦後、氏政、氏照ら強硬派は切腹となるが、穏健派だった氏直は助命され高野山に追放となった。のち赦免され、河内国に1万石を得て大名に復帰するが、まもなくして病死した。遺領の一部を叔父・氏規の子・氏盛が継承した。


北条氏勝 ほうじょう うじかつ (1559~1611) 北条家
 後北条家一門。氏繁の次男。1582年頃に兄・氏舜の死(詳細不明)によって家督を継いだ。豊臣秀吉による小田原征伐では山中城の守備に着いたが、落城寸前に落ち延び、本拠である玉縄城に戻った。玉縄城では徳川家康の説得を受け降伏、以後は豊臣方の下総方面諸勢の案内役と北条方諸城の説得にあたった。小田原征伐後は徳川家臣となり、下総岩富に一万石を与えられた。



北条氏邦 ほうじょう うじくに (1541~1597) 北条家
 後北条家一門。氏康の三男。兄・氏政、甥・氏直を助けて各地を転戦し、主に上野方面の攻略を担当、越相同盟では上杉家との交渉役をつとめた。本能寺の変後には神流川の戦いにも参戦。若輩だった氏直をよく助け、織田家の名将・滝川一益を破るのに貢献した。小田原征伐では野戦を主張したが、容れられず、居城・鉢形城に籠城した。しかし、前田利家率いる北陸軍に攻められ降伏する。戦後、利家の助命嘆願で剃髪を条件に許され、以後は利家に仕えた。


北条氏繁 ほうじょう うじしげ (1536~1578) 北条家
 後北条家一門。綱成の嫡男。父と同様、勇将として知られ、第二次国府台の戦いなど各地を転戦して武功を挙げた。氏康の信頼厚く、外交もこなしたため、岩槻城代、関宿城代に任命され北関東方面の攻略を担当した。氏康が亡くなると父・綱成が隠居したため家督を継ぐが、1578年に父に先立ち病没した。


北条氏照 ほうじょう うじてる (1540~1590) 北条家
 後北条家一門。氏康の次男。兄弟の中で最も武勇の誉れ高く、若いころから父・氏康に従って各地を転戦し、領土拡大に貢献した。氏政氏直の代になると、御一家衆の筆頭として下野・下総方面の攻略を担当、外交もこなし、諸勢力の取次役を担った。小田原征伐では徹底抗戦を主張、居城・八王子城は家臣らに任せて、自身は小田原城に籠った。しかし、豊臣秀吉率いる22万の大軍にやむなく開城。主戦派であったため、氏政と共に責を負って切腹した。


北条氏規 ほうじょう うじのり (1545~1600) 北条家
 後北条家一門。氏康の四男。父・氏康が武田信玄今川義元甲相駿三国同盟を結ぶと、今川家との信頼をさらに強めるために人質として出された。そこで同じ人質だった松平元康(後の徳川家康)と出会い親交を深めたという。帰国後は、主に外交で活躍、豊臣秀吉が九州を平定すると、家康を介して秀吉と謁見し、北条家の臣従条件を巡って交渉を行った。しかし、当主である氏政氏直の煮え切らない態度もあって小田原征伐が決定しまい、韮山城に籠城する。4ヶ月の籠城戦の末、家康の説得で降伏、その後は氏政、氏直の説得にあたり、小田原降伏開城後、穏健派であったことから助命され河内国内に約9千石を拝領した。死後、子の氏盛が7千石を受け継ぎ、すでに氏直から受けていた遺領も合わせて1万1千石の大名として家名を存続させた。


北条幻庵 ほうじょう げんあん (1493~1589) 北条家
 後北条家一門。早雲の三男(四男とも)。諱は長綱。32歳で出家し箱根権現四十世別当となる。箱根権現は関東の守護神として東国武士に畏怖されていたため、関東支配の一環で就任したといわれる。一族の長老的存在として早雲から氏直まで北条家五代にわたって主に内政・外交で活躍したが、若い頃は馬術や弓術にも優れたため、第一次国府台合戦武田信虎との戦いでも活躍した。1589年、小田原征伐が始まる9ヶ月前に亡くなった。


北条綱高 ほうじょう つなたか (1505~1585) 北条家
 北条家臣。北条早雲に従って伊豆平定に貢献した高橋高種の子。北条五色備の「赤備」を率いた。10歳の時に父が亡くなると、外祖父でもあった早雲に引き取られ、のちに氏綱に将器を見込まれて猶子となり北条姓を名乗った。家中でも屈指の猛将として知られ、特に扇谷上杉家との戦いで活躍、河越夜戦でも戦功を挙げた。その後、第二次国府台合戦にも参加した。


北条綱成 ほうじょう つなしげ (1515~1587) 北条家
 後北条家一門。今川家臣・福島正成の子。北条家随一の猛将で、北条五色備の「黄備」を率い、用いた「地黄八幡」の旗は関東諸将を恐れさせた。詳細は不明だが、父・正成が武田信虎との戦いで討死した際、親交があった北条氏綱に引き取られたといわれる。その後、氏綱に将としての器量を見込まれ、氏綱の娘を娶り一門に列せられた。河越夜戦では、山内・扇谷両上杉家を中心とする反北条連合軍8万の軍勢に対して3千の兵で河越城を半年余り死守して逆転勝利への道を開き、北条家が関東の覇者になるきっかけをつくった。その後、第二次国府台合戦上杉謙信武田信玄との戦いでも活躍、生涯を通じて戦いに身を投じ、同い年である北条家3代・氏康と共に北条家の全盛を築いた。氏康死後、家督を子・氏繁に譲るが、北条家の軍神として常に前線の城に駐留しつづけた。


石巻康敬 いしまき やすまさ (1534~1613) 北条家
 北条家臣。評定衆をつとめた。小田原征伐のきっかけとなった猪俣邦憲の名胡桃城奪取の件で弁明の使者として上洛するが、豊臣秀吉には聞き入れてもらえなかった。帰国途中、駿河三枚橋城に幽閉される。小田原征伐後は徳川家康の預かりとなり蟄居していたが、本多正信の推挙によって徳川家臣となった。


板部岡江雪斎 いたべおか こうせつさい (1537~1609) 北条家
 北条家の外交僧。氏政氏直のもと右筆、評定衆としても重用された。天正壬午の乱での徳川家康との和睦や真田昌幸と対立した沼田領問題で活躍したが、北条氏規と共に臨んだ北条家と豊臣秀吉の関係修復の交渉は氏政、氏直の煮え切らない態度もあってうまくいかず、結果、小田原征伐に至ってしまった。小田原征伐後は秀吉の御伽衆となり、秀吉死後は徳川家康に仕えた。


猪俣邦憲 いのまた くにのり (1549~1590?) 北条家
 北条氏邦の家臣。氏邦に従って主に上野国での戦いで活躍し沼田城代となる。その後、真田昌幸の家臣・鈴木重則が守る名胡桃城を奪い、これが豊臣秀吉によって出された惣無事令に違反したとして小田原征伐のきっかけとなってしまった。戦後、磔に処されたとも前田家に仕えたともいわれる。


笠原康勝 かさはら やすかつ (?~?) 北条家
 北条家臣。北条五色備の「白備」を率いた。1554年、今川家との加島の戦いで北条氏繁と共に先陣をつとめて戦功を挙げたという。1563年には、上杉謙信によって奪われいた武蔵松山城の戦いにも参陣したというが、その他の詳細は不明。


梶原景宗 かじわら かげむね (?~?) 北条家
 北条家臣。紀伊国の出身で海運交易を行う海賊だったが、北条氏康に水軍の指揮能力をかわれ、紀伊と関東の交易特権を条件に北条家に仕えることになった(村上水軍のような傭兵だったという説もある)。武田家や里見家との戦いで活躍し「北条五代記」には「船大将の頭」と記されるほどだったが、小田原征伐では圧倒的戦力を誇る九鬼嘉隆ら率いる豊臣水軍に敗れた。小田原征伐後、高野山に追放となった北条氏直に従い、氏直死後は紀伊に土着した。


清水康英 しみず やすひで (1532~1591) 北条家
 北条家臣。伊豆衆筆頭。清水家は北条早雲以来仕えてきた譜代家臣で、康英も氏康の側近をつとめた。小田原征伐のときも氏直の信頼厚く、戦上手であったため、伊豆下田城を任されたが、圧倒的な戦力を誇る豊臣方の水軍を前に降伏を余儀なくされた。小田原征伐後は隠棲した。


大道寺政繁 だいどうじ まさしげ (1533~1590) 北条家
 北条家臣。北条早雲に従って関東に下向した「御由緒家」といわれる家系の出身。内政手腕に優れ、河越城代時代には治水の整備や奉行の設置など城下の振興に力を注いだと伝わる。また戦でも「河越衆」を率いて三増峠の戦い神流川の戦いなどで戦功を挙げた。小田原征伐では松井田城を守ったが、豊臣軍の圧倒的な兵力の前に降伏する。降伏後は忍城攻めの道案内役など積極的に討伐軍に参加した。その裏切り行為が秀吉の癇に障ったのか、戦後は切腹を言い渡された。


多目元忠 ため もとただ (?~1590?) 北条家
 北条家臣。北条早雲に従って下向した「御由緒家」と呼ばれる家柄の出身で、氏康の軍師的な立場だったといわれる。北条五色備の「黒備」を率いて活躍。河越夜戦では突出して孤立しそうになった氏康を抑えるため、独断で退却命令を出して軍の統制をはかり、勝利に大きく貢献、氏康からも感謝された。その後、駿河方面から進軍してくる武田軍との戦いで活躍したという。1590年の小田原征伐で討死したと伝わるが、すでに亡くなっており、別人との説もある


遠山綱景 とおやま つなかげ (1513?~1564) 北条家
 北条家臣。江戸衆筆頭。太田康資富永直勝と共に江戸城代をつとめた。連歌会を開くなど教養が高かった。娘婿・太田康資が上杉謙信に内応したことがきっかけで起きた第二次国府台合戦で、康資の離反に気づかなかったことに責任を感じ、富永直勝と共に先駆けした結果、里見勢の反撃をうけて直勝と共に討死した。


富永直勝 とみなが なおかつ (1509~1564) 北条家
 北条家臣。北条五色備の「青備」を率いた。遠山綱景太田康資と共に江戸城代をつとめた。太田康資が上杉謙信に内応したことで起きた第二次国府台合戦で、同僚であった康資の離反に気づかなかったことに責任を感じ、遠山綱景と共に本隊である北条綱成を待たずに先駆けしたところを里見勢に反撃され、綱景と共に討死した。


松田憲秀 まつだ のりひで (?~1590) 北条家
 北条家臣。北条早雲に従って関東に下向した「御由緒家」といわれる家系の出身で筆頭家老をつとめた。主に内政・外交で活躍する。小田原征伐では籠城での徹底抗戦を主張して受け入れられるが、裏で豊臣方に内応していたのが露見して投獄された。譜代家臣中最高の知行を得ていた憲秀の裏切りは小田原城内の戦意を喪失させ、降伏開城を決定づけたといわれる。戦後、その不忠を秀吉に咎められ切腹させられた。


松田康長 まつだ やすなが (1537~1590) 北条家
 北条家臣。憲秀の甥。奏者や奉行衆として主に内政面で活躍した。戦働きでも活躍しており、神流川の戦いで武功を挙げたという。小田原征伐では山中城の守将として4千の兵で豊臣軍7万と戦い奮戦したが、半日で落城し討死した。